昭和43年10月23日 朝の御理解

御理解第3節「天地金乃神の申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」



 生神金光大神出現の一番主な神様の目的が果たせられるために下さった御理解だと思います。神様の願いが私共氏子全人類の上にね、現われる神様の願いが私共人間一人一人の上に現われる。人間一人一人が幸せになっていかなければならない。そのために生神金光大神が差し向けられなさったと。どういうわけに人間の不幸せがあるか、難儀があるか。どうすれば、ね、上下立つようにと、神も助かり氏子も立ち行く、言わゆる、神前、共々に栄えていく道が開けるか、ね。
 ということをこの御理解第3節については、もう大変、今まで説いてきた、全然気が付かなかったところにお粗末ご無礼がある。そういうことがたまりたまって難儀なもとを生んでおったということをいろいろ頂いたんですね。いわゆる私共が信心をしてきたということは沢山な宗教であって、沢山な人間が昔から信心をしてきた。けどもそれは、これはね、神様を拝むとか、仏様を拝むとか、もちろん教えも頂いてきたけれども、人間の難儀のもとを絶つというような教えはもう一つもなかったんですね。
 起きてくるその難儀をいかに処するか。そこをいかにおかげにしていくかということは様々に解き明かされたんですけれども、ね、こういうことが難儀のもとになっているんだと、というようなことを解き明かされたのは金光大神だけですね。私共が知っておる限りの、いわゆる様々な宗教を聞いてみたり、まあ勉強してみてから思うことはここが金光大神の取次の道の一番素晴らしいところである。しかも、金光様の信心を頂いておっても、どうもうかつになりがちなようなところをですね、私はもうここを知らなかった。そこんところを教えてあっておられる。
 「天地金乃神と申すことは天地の間に氏子あっておかげを知らず。」天地の中に生かされておる私共がですね、その第一天地のご恩徳を知らなかった。天の恩は説いてきたけども地の徳を説かなかった。天地の間には住む氏子の全部が当然、天地の大恩に対してそのおかげをおかげと分からしてもらう生き方というものが、自ずとなされていかなきゃならんのですけれども、そこにいろいろなひとつのこじつけというか、いろいろな迷信というか、もうそれこそ私共が神様の心とは全然、見当違いのところにばかり力を入れてきたということですね。
 神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所。いかにお寺さんであろうがお宮さんであろうが、言うなら神様の地所と。そのわけ知らず、日柄方角ばかり見て、もういよいよここのところに検討違いなご無礼をしてきておられますよね、検討違い。そういう検討違いな生き方が積もり積もって、いわゆる前々のめぐり合わせで難を受けおるとこう。いかに検討違いな生き方が天地に対するご無礼になるのか、めぐりのもとになるのか、難儀のもとになるのかということをここでこれほどに明かされたのは金光大神ご一人だとこう思いますですね。
 お道の信心頂いておってもここをおろそかにしたら、いわゆるめぐりを絶つというようなことはできません、ね。それぞれの因縁にあってめくらになり、因縁によってちんばになり、因縁によって様々な難儀を例えば受ける、ね。そこからめぐり、因縁の取り払いを頂いて幸せになっていくというような意味でならば、もう何様でも説かれたはずですね、ね。
 前々の因縁によって、(いったんめしい?)となった、例えば「さわいち」さんがですね、妻「たつ」の信心によって目が開いたというようなその霊験を受けてきた、ね。そこんところを教祖様はですね、もちろんそういうおかげも受けられるけれども、前々の因縁によってそういうものを作らんですむ生き方というのは、もう実を言うたら見安ういける、ね。いわゆる私共が本当の検討を付けるところに検討を付けて、生活していきゃあいいのです。
 もうとりわけここで一口教えておられるように、日柄方角ばかり見てといったような迷信ですね。これなんかはもう、天地に対する冒涜です。これがご無礼にならんはずない、ね。天地の中にそれこそ指一本押すだけでも天地金乃神様のご恩徳に(のべる?)というところはないと言われておるのに、その土地に良し悪しをつけたり、ね、日柄が良いの悪いのと日々の天地の親神様のお働きそのものにケチをつけるようなことをする。そういう、言わばこのくらいな簡単なことがです、難儀のもとになるじゃろうかと思うようなことが難儀のもとになっておると、ね。
 前々のめぐりでその難を受けおる。この度金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、ね。ここんところは言わば様々な因縁によって難儀を受けておるけれども、ね、その難儀な氏子に、ね、願う氏子に目が開きますようにと言う願やあ目を開けて下さる、ね。そういうおかげもまず授けながらですね、次に理解申して聞かせと。いわゆる天地の事訳、いわゆる天地の道理を前々と解き明かして下さって、これからはこういう難儀な目に遭わんですむ道を歩けよと。
 理解申して聞かせ、しかも末々繁盛いたすこと。親の代よりも子の代、ね、と繁盛いたすこと。しかもそれがまた、ね、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたすという道が開けてくることを理解申して聞かせて下さるのです。それをここのところに私共、金光様のご信心をさせて頂く者は、本気で取り組まなければいかんのですけれども、金光様の信心を頂いておっても、いわゆる見当違いなことに力を入れる。見当違いなところに焦点を置いておるようなことが沢山あるようです。

 そこでそういうことがひとつ分からしてもらって、それを日々の信心の生活の中に頂いていくと。少しきばって、ね、やはりそれが自然に身についてくるまでには、やはりそこんところを心に頂き続けていかなければなりませんから、例えば今日という一日。というのはもうまたとない一日である。23日の月次祭といやあ、ね、昭和43年10月23日のお月次祭といやあ、もうまたとないお月次祭である。
 もうよかよか、次の月次祭というわけにはいかんのである。今日という日はもうまたとない今日一日なのですから、その一日をです、ね、いかに充実した神様の心にかなう一日であるように、神様のお喜びを頂けれる一日であるように、今日一日をどう生きるかと。ということをですね、これは私も、ね、それを願わしてもらう。それは願わんでもそれが身についてしまえばそんなにきばらんでいいのです。わざわざ今日という日はまたとないなんて理屈をつけんでも、それは分かりきったこと。
 けれどもその今日という一日がですね、いかに神様の、ね、細かい計算の上に立った今日一日であるか。一日その、言わば神愛のこもった今日一日であるか。ということをです、ね、何気なく生きていくこと。なかにも、今日ここに御理解3節に申しますような事柄がです、何気ない生き方の中に十分染みとおっていくところの一日、ね。
 それを私共はまだ信心がぎこちないですから、ね、今日一日をいかに充実した一日でありたい、神様の機感に、お心にかなう一日でありたいと願いもしなければならん。またそこに心がけていかなければならない。そこにおかげの受けられる、言わば体験の中に、ね、どうでも体験の中に今日一日を有り難い一日としておかげを頂いていく。そこで心にかけ通りにかけておらないと、ね、分かりきったことが分かりきったようになされていない、ね。
 当然なことが当然なこととしてなされていない。いわゆる実意丁寧を欠いてしまう。実意丁寧なんかでもそげんと。どうぞ今日一日を実意丁寧にならせて下さいと願わんでも実意丁寧がもうここに染み込んでしまえばいいのである。この御理解3節が本当によく分からして頂いて、ね、見当違いのない一日であることをです、祈らなければならない、ね。
 だからそういうことが私共の、もう信心のひとつの体臭とでも申しましょうかね、なら身についてしまうという、そこんところを私共が身に付けていく精進が必要なんです。
 昨日、夕べの御祈念に熊本から親子4人連れで参っておられます。大祭におかげを頂いて、まあたいへん有り難い、有り難いでまあ、近所の人達もそれに一緒に自分の車に乗せて帰らせてもらう。そして、誰々さんはどこへ、誰々さんはどこに送ってあげるはずだった。出掛けにその人の、熊本市内なら市内におられる姉さんに、まあ用があるから寄ろうかと思ったけれども主人が、よう神様参りの時に、もう他所に寄り道したりしたらいかん。特にその方は家でやかましく言われる。
 だからもうご大祭がすんだらとくと感じて、それに山ん中の人ですから、田舎の人ですから、それぞれ乗せてきた人達を送ったらそのまま帰ろと言うて出かけてきておった。ところがその途中から思いをかえて、他の人達に降りてもろうてから自分は熊本市内のその人んとこに、まあどういうふうにあげなふうなことしたか自分でも本当に、いわゆる検討違い。もうこげなご無礼なこと分かっておる、主人からも言われ、自分もそう思うておった。2人とも夫婦で運転ができる。嫁さん運転してあの、その後ろの方に向かっておるのに通った時に他の自動車に追突した。
 すぐ電話が台所にかかってまいりました。どうぞよろしくお願いしますと。もうそれからこっちはもう自動車の中が億劫になってから怖くなって、今もいわゆる電話で素通りした時も次にあっておりましたけども、昨日はそのためのお礼参拝であった。もう思えば思うほどその人も感じておる。また私も聞けば聞くほど、神様の御守護の中にあることが分かるねとこう言うておったことでございます、ね。
 その追突した人が非常にその腹かいてですね、まああるところで、とにかくとられるしことれと、それがおもしろいですね、その姉さんの家に行ったわけですね、その後に。そして今日は誰々さんが追突されてから、来たからもうそげなふうなとならばもう完全に向こうが悪かっちゃからうんと取れっち。
 してからいろいろ知恵を与えて帰した後にそこに、したらその自分の妹じゃけんでちゅって(笑)。はあ、いらんこと言うた、んならもうすぐ電話かけちからあれは私の妹じゃったけん、こらえてくれんのちから電話がぶちっと。(笑)。人間ちゃあおもしろいもんですね。もう赤の他人じゃったとがうんと取れちから知恵まで与えとってから、その追突したのが自分の妹であることが分かったもんじゃからすぐ電話があった、そうしよるとこに次々と3人かに5分間おきぐらいに来たと。それがね、追突した小学校の友達ばっかりじゃったげな、ね。
 あああの、ほんなら私が具合良う言うてあるがの3人が口をそろえて言いました。姉さんもここで住む仲じゃから、あなたに追突したとは家の妹じゃけんこらえてのと、まあ言うておられる。向こうはもう気持ちよい。そげなこっちゃ( ? )、それじゃ(?)とられもせんのというようなことでおかげ頂いたというわけなんですよ、ね。
 あれだけ沢山の例えば車が右往左往しておるなかに、そういう人に追突させられておる、ね。追突した、追突させられておる、ね。いわゆる見当違いなことをですね、神様がそういうことによってお気付けを下さる、ね。結局、ね、こういう素晴らしいですね、神様の御守護の中の親先生お取次の働きの中にあることが分からして頂いたというわけなんですね。
 いわゆる検討違い、例えば様々な、だから信心さして頂いておりますとですね、その見当違いがありますと、すぐお気付けが頂ける。信心のない時にはそのお気付け頂きよるかもしれんけれどもそれを分からない、ね。けれども、信心さして頂いておると、確かにそこんところがですね、いわゆる前々のめぐりでというようなことにならんですむように、もう片っ端からお気付けを頂いたり、ね、もう難儀のもとにならんように、神様がお働きをされるように思います。

 昨日、これも家庭問題なんですけれども、主人が熱心に参ってくる。嫁さんはそれほど熱心じゃないけれども、まあいろんな忙しい商売をしてます。姑がまだ2人共若い。一生懸命働かれる。嫁さんも一生懸命おっかさんに負けんごとと思うて働くけれどもおっかさんには適わん、うん。それで、言わばいつも働きが足らんように働きが足らんように言われたり思われたりしておる。
 そういう雰囲気の中に毎日暮らすのがもう息苦しいことなってた。そこで、しばらくもう自分は体も少し弱くなったから、里に帰らしてもらうとこう言う。今日、お父さんの言わっしゃったあの一言。もうとにかくがくっと胸にくるほどに堪えた、ね。子供、まだ上が4つでしょうか、小さい子供を幼稚園に預けて、そして働けとこう言われる。まあだこんな細かいとを手放してからまでというあれはないけれども、まあとにかく一事が万事に自分の思いとは違う。
 とにかく自分と一緒に別れてからどげな商売でんいいけんさしてもらう。という勇気があるなら私は別れたい、ね。でなかったら私は私だけしばらく里に帰らしてもらうということになった。けれどもそこに中に入ったその主人が信心がありますから、いろいろ言うて聞かせるけども分からん。んならとにかく合楽にお参りさして頂いて、ね、親先生の言われる通りにしようじゃないかと。
 ところが私も聞かせて頂きよったらそれは一時ばっかりは帰ってきたがよかばいっていうごたることだった。2人の話を聞かせて頂いてですね、そげなふうならもう一緒にはおられまい、ね。それはあなた達の言うとが本当じゃから、しばらく家に帰らしてもろうたらよかろうと言わなければならんほどのことである、ね。
 こういう時にです、私共が見当違いな生き方をするわけですね。人間の考え、人情では、本当にしばらく久留米からみえとっとですから、久留米の里に帰って来なさい。これはもう誰だってそう言わなければおられん。自分もそう思うておる。けれどもそうすることが検討違いなのです。なぜかって、主人が一生懸命信心をする、家内も信心をする。おかげでだいたい、まあ2人の子供を頂いたけれども、2人の、前の子供ん時なんかはもう、親子共難しいっちゅうごたる状態であった。
 それを神様のおかげで助けて頂いて、親も子も助けて頂いて、そういうところから信心になってきておるわけです、ね。一生懸命願うことも、本当の幸せを願わんことないから、一生懸命願いよるから、神様が本当の幸せを下さろうとする働きがです、そうしてあっておるのを、それを分からずに知らずにそれを退けて、例えば里に帰るということはもうこげな見当違いないです、ね。
 だから私はその人に申しました。あんたから今、夫婦の仲の話を聞いておると、本当にこれはしばらく里に帰っとかんので、もう普通の人事相談なら必ずそう言うだろうと私は、ね。よう今、人事相談というのがあるね、雑誌やら新聞でもある。もうそういうところに相談でもしたなら、そらそうするが一番よかごと見えるけれども、それも計画保存して、するのじゃなくて、話し合いの中にです、それができるのだから、話し合いの上にしばらくあんたの体も悪いことだから、里に帰らしてもらえというのが、まあそういう言葉しか出てこない、話聞きよったら。
 ★けれどもんなら御神意はそうじゃない、御神前、御祈念をさして頂きよったらね。こういう大きな幕にね、だいたいこれ、右側にのしをついてるでさなあ、大きなのしがあるでしょう。引き幕なんかにありますよ。それを左側歩いていきよる。しかもね、この大きな幕の、まあだこの辺のところにこうあれがある。その下に出てるわけです、ね。出てるといやあ、ここは描かれてないわけです。のしのこうしぼってあるところだけがこういうように出ておる。ここんところが分かってない。
 天地の親神様が言わば自然のそういう働きがです、そういうふうな上に本当のおかげを下さろうとする働きがですよ、神様がのしつけておかげ下さろうとしておる、左の方というのは合楽的という意味でしょう、ね。特に合楽に御神縁を頂いておかげを見ておるから、こういうおかげも下さろうとしておるのをです、これを無碍にしたら馬鹿らしいだけではなくて、神様にもお粗末になるご無礼になる。人間の幸せというものは自分達が幸せになろうとしてなれるもんじゃない、ね。
 その引き幕にね、「恵み与える」と書いてあった、ね。おかげというものはね、恵まれるもの。与えられるものでなからなきゃいかん。同時に許されなければならん。おかげというものはね、恵まれるもの。そこで世の中で信心はなくても、家屋敷、家、財産、健康に恵まれている人がありますよね。いわゆるそういう財産が与えられておる人がありますよ。ところがそれだけでは人間の幸せにならんとです。
 どんなにおかげが沢山あってもですね、おかげが沢山恵まれておってもですね、健康に恵まれておっても、それだけでは幸せじゃない、ね。次に許されなければ、ね、自分の心の中に有り難いなあと思うことを許されなければ、自分は幸せだなあと思うことを許されなければ幸せはない、ね。また、それの反対に私はもう本当に何もない、お金もない物もないけれども、信心しとるおかげで心がいつも喜びいっぱいである。
 いわゆる許されておるわけです、心に許されておるわけ、ね。喜び許されておるわけ。幸せを感じることを許されておるのです。けれどもね、これにやっぱり与えられるというものがなかったら本当の幸せじゃない。本当にあなたが、ね、何もないけれどもこんなに喜んでおるというその喜びがあるならね、与えられんはずがない。それはあんたが口だけ。本当の幸せじゃないと言いよるわけなんです。まず、恵み与えられなければならない、ね。
 同時に許されなければならない。神様はその先、夫婦にですね、そういう恵み与え、そして許されようとする働きがある。それがこののしのですね、描かれてないところですから、私共人間凡夫では分からんから、それはあんたが言う通りにしばらく里の方に帰っとった方がよかろうというごとあるけれども、ね、御神意はそうじゃない。さあ、ここ、今までは泣く泣くの辛抱じゃったけれども、なるほど叩かれたら痛い。痛いけれども、そのそこに、ははあ、神様がこげんして恵み与えようとして下さるように、幸せを許そうとして下さっておることを楽しまして頂いてから今日は帰りなさい。
 お話頂いておるうちに元気が出てきた、ね。お話頂いとるうちに、言うならもうひと頑張りさして頂きましょうということになった。これにはもうにこにことして帰って行きました。帰った途端にやられるかもしれんばい。その時にぱっと、もう人間と言うのは心が救われるとですね、今まで、はあすいませんと言おうと思うたって言えない。雰囲気が言わせない。
 ここをお父さん、すいませんと言やあ、お父さんが気分が良くなることが分かるばってん、どうもあの顔見よると、すいませんが言えんなか。それが人間の心の中にすきっとした有り難いものがある時には、はあ、お父さんすいません。お母さん、私はつまりませんでとすぐ素直に言えれる。今日のことなら言えるだろうが。例えどういうふうに、例えば叩かれるような場合があってもですね、そこんところをすいませんで受けていけれるねっていうか、はあこの調子ならいけれる、ね。
 もういっちょ、もうひと頑張りさして頂こうというわけである、ね。私共がですね、今日の御理解3節に出ておるところの見当違いというのは、もっと大きな意味合いでの検討違い。それも見やすい見当違いです、ね。今日の生活の中にもです、ただ今申しますように、その(?)もそうじゃないけども、見当違いのところに行きよった。こうであることが本当であるのにもかかわらず、善導寺に帰らなきゃいけんのに、熊本の他所の所行きよった、検討違い、ね。
 神様がこういうおかげを下さろうとしておる、しかものしつけて下さろうとしておる。恵みに与え、しかも許そうとしておられる幸せをです、私共が横において久留米の里の方に帰ろうとしておる見当違い、ね。それを分からしてもらう、ね。そういう生き方を身に付けていくところの信心をですね、いよいよ頂いていかなければならん。そこに私はですね、末々繁盛いたすこと。もうこれはもう神様が受けあいと言わんばかりにここに言うておられますね。
 末々繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたすというおかげが現されてくるわけでございます。今日も検討違いの一日でありませんように、いや、今日という一日はまたとない、またとない今日一日をです、検討違いな一日であってはそれだけ一生のマイナスである、ね。
 今日という一日をどうぞ、有意義にということじゃないですかね。有意義と言うよりも、今日一日を本当に、ね、検討違いでない一日でありますようにと座り願わせてもらえれる今日一日であらなければならない精進をそこにしていかなければならない。いかにもそこはぎこちないですけれども、そういう実意丁寧がです、身についてしまう。身にしみこんでしまう、ね。もう何気ない一日のようにあっても、やっぱりぴしっと見当違いでない一日が過ごされておるようなおかげを頂かせて頂けれる、私は信心を身に付けていかなければいけない、ね。
 そういう信心を身に付けていかなければ、金光大神がこの世にご出現になった、その訳すらがですね、その理由すらが希薄なものになってくる。薄いものになってくる、ね。お互いの人間の、いわゆる幸福というものは、ね、金だけでもない物だけでもない。と言うて、心だけではない、ね。恵み与えられるおかげを頂くために検討違いのない生き方をしなければならん、そこに恵み与えられる、ね。
 それだけでもいけない。許されなければならない。喜びたい、喜びたいと思うけれども心が真っ暗。自分ではどうにもできない。許されていない証拠である、ね。恵み与えられる中に、許されて幸せをしみじみ感じさして頂けれるおかげ。そういうおかげがいよいよ末々の繁盛にも繋がり、神も助かり、氏子も立ち行くようなおかげに繋がっていくところにです、ね。
 お道の信心が、私はあると思うのです、ね。只難儀の中から救い助けてもらうというだけのこっちゃない。難儀のもとをこれから作らんですむ生き方がある。それはもう実に平易なことである。見やすいことである。けれどもその見やすいことでも自分の信心に、自分の信心の体臭にまでなってしまわなければならんところに、たゆまずの稽古がある。どうぞ、今日という一日はまたとない今日一日をです、ね、本気で教えに取り組ましてもろうて、実意丁寧に、ね、検討違いのない一日でありますようにという願いをもっておらないとついつい検討違い、ついつい実意丁寧を欠いでしまう、ね。
 これはね、本当にあのう、身に付いてしもうたら楽だと私は思うんです、ね。例えばお気付けならお気付けをちょっと頂くからすぐ分かる。例えて言うならばね、久留米バスなら久留米バスで下りれるようなもんだと思うんですよ。信心が身についての生き方というのは。
 とこう、ね、ちょっと乱れたら、もう絣が乱れるです。ですからそういうとこをやり直してからこうやっていきゃあいいでしょう、ね。だから、金光大神の教えられた信心生活というのは、そういうものが一遍身についてしまわなけりゃいけん、ね。人間ですから間違いがあります。ありますけれども、そこはほらほらっと神様がお気付けを下さる。そこで、こう直していく。
 ちょうどきちっと絣織り上げていくようなもの。ここんところがでけんとですね、いつも乱れに乱れっぱなしの絣(?)ではないようなものが出来上がっていく。ちょっと模様なら模様がきれいに出来上がっていく、ね。
 例えばそれが絣織り習うということはです、難しいことでしょうけれども、一旦それを自分のものにしてしまうと、後はもうてんからりんてんからりんと打っていくでしょうが。簡単なもんです。信心生活も、そこまでひとつ自分のものにしていかなければいけないと私は思うんですね。どうぞ。



明渡真